
61年を振り返って
~私の印象的な思い出~
1958.4.24 誕生
当時の家族は父義一、母久子、姉祐江、祖父文治の五人です
幼児期3歳くらいまでのことは詳しく覚えていないけど、父はぶどう棚の跡地に事務所を構えて仕事をしていた事を覚えています。
幼稚園に入ってお遊戯会で、ビーズ付ビロードの上着と下はレースフリルのスカート(母が作ってくれたのでしょうか)積極的に踊りました。活発だった事を覚えています。
ピアノを習い始めたのもこの頃で、市電で鶴巻橋(井土ヶ谷)あたりまで姉と一緒に通ってました。原因は覚えていないけど、ある日、姉と別々に帰ることになり、お財布を持っていない私は、市電の通り道をひたすら歩いて帰りました。家族みんなで心配したことでしょう。今でも帰り道のことはよく覚えています。
小学校で印象的なことは2年の途中でマコちゃん(雅子)が神戸から引っ越してきて。すごく仲良くなり、おうちにお邪魔する事がたびたびありました。
雅子ちゃんのおうちは洋館で吹き抜け、シャンデリア、応接間もあり、ペンスタンドがあり、ダイニングには今は当たり前ですが、テーブルとイス、子供部屋は二段ベッド、トイレは洋式で、当時はとても新鮮でカルチャーショックを受けました。その影響か、家で一人で遊ぶ時は(岡崎家にある)三面鏡をお城に見立てて、お人形遊び、着せ替え遊びをしている事が多かったです。4年の途中でマコちゃんはまた転校し、神戸に行ってしまいました。
5年生の頃、担任の栗原先生の自宅にクラスの友達と横浜から相鉄線にのりつぎ、秦野まで行ったのも良く覚えています。そこで初めてコカコーラを飲んだことも覚えています。
スポ一ツも好きで、ポートポールの選手になったり、水泳大会の選手の代表にもなりました。この頃、肩を骨折したこともありました。
6年になる春休みに栗原先生が結婚し、新婚旅行の日程とよど号ハイジャック事件と重なり、目的地は違ったのですが、飛行機に乗ってるはずだったので心配しちゃいました。修学旅行は日光で母が黄土色のジャンバースカートとボレロを新調してくれたことも覚えています。
夏休みに大阪万博に父と行き、住友童話館に並んで入ったのも覚えています。
すごく未来を感じる、上空にエスカレーターで引き込まれていく建物でした。
万博に行った次の日、長良川の鵜飼を見たことも覚えています。素敵な旅行でした。
子供の頃、母と芝川や富士など山梨のほうへたびたび連れて行ってくれましたが田舎暮らしはあまり好きではないなと思いました。あの頃の外食での注文は、ラ一メンと、うな重の上のみでした。
家族とマージャン、花札を楽しんだことが良い思い出となっています。
色々の動物も子供の頃、飼っていました。犬ば「ひわ」、猫は「たま」、ウサギ・りす、池には金魚がいて、カエルも出没していました。
家を改築して二階にしたのも小学校高学年の時期で、子供部屋ができてうれしかったです。
中学・高校は姉と一緒の高校に行き、中1の時は重たい荷物を姉に持ってもらって坂道を上がっていく事が多々ありました。大変助かりました。
姉は茶道・華道部に入っていましたが、私は中学時代は卓球部でした。
高校は書道部と華道部に入部しました。高校の授業ではコンピューターがあり、大型コンピューター(富士通)を移動させるのが大変でした。
あと英文タイプで今のパソコンでも通ずるタイピングを学んだ事を覚えています。
中学校の修学旅行は東北、高校は九州一周。九州では草千里、阿蘇、は大雨でバスからでれませんでした(がっかり)。宮崎の日南海岸の鬼の洗濯板がすばらしかったです。
高校で友達と贅沢してキャンプをした際には地元の中学生に間違われ、ショックを受けた事を覚えています。
今思うと文化祭などの行事は活発で、印象的なことは「翼をください」をみんなで歌った事を覚えています。その頃(高校)、祖父(文治さん)と地下鉄の工事を一緒に見に行き、元大工であった祖父はとてもうれしそうでした。
大学入学式に父義一さんと、熊ヶ谷まで一緒に行きました。
クラブは茶道部に入部しました。中学・高校とは違い、クラブは親睦を深めるものでした。2年の6月、教職科目で1組にいる(私は2組でした)今の夫である、伊藤君に会いました。急に講義が休講になった時に伊藤君がお兄さん夫婦の写真をたくさん見せてくれました。5月に結婚したそうです。私の姉は6月(6月1日)に結婚したばかりで、共通の話題で話が弾みました。
8月、文治さんが亡くなっています。子供の頃から一緒の生活で、祖父からはちよっと変わった日常生活を学びました。
3 -4年では法学系の清水ゼミに入りました。4年での就職は女子にはちょうど狭き門の時代で大変だった事を覚えています。先に精密機器会社から内定をいただき、その後、朝日カルチャーセンターの募集を新聞記事で知り、申し込みました。状況を把握する為、ゼミの先生が電話してくれたところ、800名くらいの応募のうち10数名採用希望とのことで無理だと思っていたけれど合格しました。先に決まっていた内定(精密機器会社)を辞退するのが人生最大に気まずかったです(だっておばあちゃんが精密機器会社の人に電話で助かりますといってしまっていたので、精密機器会社の方は絶対私が入社すると思い、補欠の方も断ってしまったようでした。断りずらかった(笑)
大学を卒業し、カルチャーセンターに入社し、同期で八一会(はちいちかい)を結成しました。正社員入社初日が朝日カルチャーセンター横浜(ルミネ内)の開始日で総務部であった私はテープカットのお手伝いをした事を覚えています。
会社は学校のような環境で仕事もしやすかったです。同期とも仲がよく、当時できたばかりのディズニーランドに行ったり、スキー場や会社の保養所にも行きました。
1984年6月24日結婚式、7月7日入籍。伊藤君と綱島のマンションに一緒に住みました。すぐに京都、そして沖縄旅行に行きました。その年の12月末にカルチャーセンタ一を退職しました。
1985年4月8日長女裕理誕生。出産の前日までデパートに行ったり、元気でした。その年の9月に6ヶ月の裕理をつれ、母も一緒に来てくれて、伊藤君の運転でつくば博ヘいきました。子供を母にまかせて夫と飛び回りました。(笑)翌年裕理 1歳の頃、親子三人で沖縄に行きました。とても海がきれいでした。
1986年6月24日バリケード事件なんかもありました(伊藤君はわかっているでしょうが)(笑)。
1987年1月28日長男喜章誕生。約一ヶ月早く生まれてしまいました。黄疸がひどく、保育器にはいりました。
1989年横浜博には家族四人でいきました。喜章のお子様ランチ事件もありました。突然でしたが、よしは自己主張ができるようになりました。びっくり!!
当時はマンションに住んでいて、同じくらいの子供がたくさんいました。
子供たちは家ヘと飛び歩いていました。(お邪魔しあっていました)
裕理は3才(前)にもかかわらず自転車に乗れるなど運動神経がよかったです。
喜章はちよっと体が弱めで喘息気味で、環境からか競争心が強く数字が大好きでした。
1990年3月弘明寺のアパートヘ引越し。4月から裕理は若宮幼稚園に通いました。
次の年に喜章も入園しました。その頃、カルチャーセンターからお仕事要請があり、幼稚園の時間帯は仕事をしていました。
1992年3月にアパートから今の家に引越し、4月に裕理は小学校へ入学。やっと落ち着いた生活になりました。その年の12月彰香誕生。出産は軽かったです。(3人目だからかな)
裕理は小一、喜章は年少で入院中、心配でもありました。
翌年4月喜章小学校へ入学。その頃彰香をつれてほぽ毎日、公園に通っていました。
裕理小学校5年、喜章小学校4年の頃、喜章が盲腸の疑いで入院。結果は風邪の菌が原因で大事には至りませんでしたが、その後すぐに骨折。その年の12月裕理はマイコプラズマ肺炎で入院しました。その年はお友達から「お払いをしたほうがいいんじゃない?」と言われるほどでした。
子供が小さいころは何度か静岡へお茶摘みに行ったりしました。
学区の公立中学の雰囲気が良くなく、裕理·よしは私立の中学校に進学しています。
1999年4月あきかは小学校へ入学。3年生の時に担任の先生に頼まれて私は学年委員をやりました。この頃は考古学財団へ仕事をしていました。考古学財団での休憩時間は、おかしタイムで、手作りプリン・クッキーをいただいたり、至福のときをすごせました。
2001年、父が大阪へ単身赴任。夏休みには家族で大阪に車で行き、USJやexpoランドヘ、喜章は高校野球の応援(甲子園)へいったりしました。楽しかったです。私と裕理とあきかで一足早く神奈川に帰る新幹線でお土産の八つ橋をぜーんぶたべてしまいました。笑
裕理・喜章は私立の大学に行きました。あきかは公立中学の治安がおちつき、南中へ。
喜章20歳成人式では着物を着て、伊藤ユキヱさんと記念写真を撮りました。その年、喜章は大学3年生、彰香中3高校受験に向けて勉強中、裕理は大学4年で就職が決まった8月ユキヱさんとみんなで楽しく食事をしました。それがユキヱさんとの最期になってしまいました。
彰香は高校は祖父(義一)と同じ横浜翠嵐にいきました。祖父と文化祭にも行きました。
喜章の大学にも義一さんと一緒に行ったりもしました。裕理・喜章も順調に就職でき、あきかは大学へ入学し、大学から表彰されたり、学費免除も受けたり、すごく助かりました。
2013年裕理が結婚し、孫を授かりました。2014年には伊藤君(父)が早期退職しました。北海道の大学の友達のもとヘゼミの女子の友達といったり、九州の高千穂郷にいきました。裕理が結婚した太田さん家族と九州めぐりをしました。静岡県の寸又峡、奥大井湖上駅にもおとずれすばらしい景色を伊藤君と堪能してきました。
その後、立山アルペンルート、雪の大谷、へも訪れました。伊藤家のお兄さんとは青森の親戚の方を訪ね、おいしいものをたくさん堪能し、特にウニがおいしかったのを覚えています、それまでウニは好きではなかったのですがとても美味しかったです。
2017年孫早咲誕生、あき就職。あきは7月頃から千葉ヘ一人暮らしを開始しています。2018年4月私は還暦を迎えております。孝行さんと私の還暦お祝いで子供たちにお祝いされ、ご馳走も頂きました。
2018年9月病気がわかり救急へ。余命三ヶ月。ぇっって感じです。今の現状を見て下さいって感じです。病気との闘いに突入。家族に支えられて通院もできました。
2018年11月喜章婚約。2019年6月結婚予定。がんばらないといけないのですが!
2019年3月中旬すぎ延命治療に突入しました。いつまでかな?
皆様に支えられ続けました。
ありがとうございます。
先に旅立ちますが、皆様の記憶の片隅に残っている限り、この世界にもいるような気がします。
ちよっと変わった若代でしたが、たまには思い出して頂ければ、ありがたいです。
伊藤若代